SNS疲れ

私はSNSの中でもTwitterの使用頻度が一番高い。

他にもやってはいるが、最近になって、何か〝眩しく感じる〟ところがあり、目を遮りたくなることが多くなった。そのため、たまーに眺めるか、美味しいご飯屋さんやらの情報収集のために使うぐらい。

mixi全盛期の話をするが、当時は『mixiが無いと生きていけない』といった気持ちが周りに伝わるぐらい、つぶやきや日記の更新頻度も高かったと思われる。
しかし、ふと、mixiをやっている知人と話した際に『なんかmixi見ていたら疲れちゃうんだ~』と言葉が出てきたことがある。

数年経って、同じ知人にSNSの話の流れになった際に『SNS上は仲がよさそうなやり取りをしているのに、実生活では相手の陰口を言っているシーンを見たりして、人って怖いなって思ったよ。』と、

おそらく、仲良しなのではなく〝嘘〟の人間関係という〝存在〟に『疲れた』といった感覚を覚えたようだ。
 
SNSは文字で語られるから、そこが怖い。
文字上はコメントした人間の感情・表情の全てが伝わらないからだ。
私もその話を聞いてから、一度、SNS全体から離れてみた。


Twitterにおいても同じようなことは言えるが、蓋を空けてみれば、個々人の思考が一目でたくさん見られる頻度が高い。それで、自分自身が徳を積んでいるかのような感覚になり気持ちが高ぶる。新しい発見もある。まるで、お宝探し。だから好き。

多分、周りに合わせる必要も無く、ありのままの自分でツイート出来る環境が居心地が良いために、Twitterが好きだ、というところもある。

例え、考えが真逆であるアカウントがいたとしても、いい具合に共存している、そんな世界だ。

だから、ふと見掛ける友達同士で盛り上がりました報告の記事はあまり好きでは無い。自撮りも頻繁に上げちゃうのも好きじゃない。

私、日々満たされてます!
私、可愛いでしょ!可愛いって言って~!

私はこういう記事を見ると思うことが出てきた。 

そんな押し売りは要らない、と。

この気持ちが、以前、知人が話してくれた『疲れる』という部分と同義なのかもしれない。

はじめに

筆者自身、今まで生きてきた中で、他人の行動、言動に納得できないことが数えきれない程ある。

人間である以上、そんなことは当たり前で、そんなこと言い出したらキリがないことも承知している。

ただ、個人的には生きづらい環境だと感じながら過ごしてきた日々の中で、思うことを更新するだけのブログを立ててみたくなった。

ブログを使うなんて、高校生以来だ。
当時のブログは、今で言うTwitterのように『一言呟く』だけの記事でも成立するような存在だった。

学生時代はネットリテラシーなんてものは考えず、思ったことはどんどん発信。それは良いことも悪いことも区分せず、ありのままの自分をさらけ出す。

多分、筆者の性格上、それが良かった。
『全てにおいて正直な自分で生きていたい』という、筆者自身の自我が芽生えた瞬間から持ち続けている他人との関わり方のルール。

おそらく、このルールに対して嫌悪感を抱く人もいるだろう。特に、当時の自分が区分することが出来なかった『悪いこと』に対して。

ただ、『悪いこと』と判断するのはあくまで他人であって、自身が『悪いこと』と思わなければ、別にやり続けて良いとも思うし、ましてや自身の行動、言動は全てが『良いこと』とも端から思っておらず『普通のこと』と捉えている。

でも『普通』ってなんだろう。
健全さが無ければ普通じゃないんだろうか。
いつも笑顔で振る舞っている人間もいれば、誰かに理不尽なことをされて不満に思う人間だっている。

みんな、人間として日々を『普通』に過ごしている。

だからこそ、後者の立場にある人間ばかりが、他人から陰口を叩かれていたり、飲みの席でのくだまきの材料にされているシーンを見るといたたまれない気持ちでいっぱいになる。

なんでこんなことが起きてしまうんだろうか。

何故だろう。


━日々、こんな自問をすることで頭の中をいっぱいにしながら生きている人間のブログです。

自身が思うことを誰にでも伝わるような言葉にすることが元々、苦手。

でも、ある程度年を取れば苦手なものを克服するのも、人生にとっては良い行いになるんじゃないかと。

そのためにも、自身の気持ちを漠然としたものではなくて、言葉で綴ってみたいと思う。